終わりを意識することと今を大事にすること。
東京(都会)と地方(田舎)で大きく違う点として、ひとつ「教育事情」が挙げられる。
東京で育った私は、小中高と住んでいる区内の学校に通い、大学も都内、就職も都内。25歳で一人暮らしを始めたけれど、実家と同じ沿線沿いの隣の区。
つまり、いい大人になるまで実家にお世話になりっぱなしで育った。
その後結婚して住むことにしたのも同じ区だったので、自分の子供時代とすごく近いイメージで我が子たちの進学や将来をイメージしていた。
口では「早く家を出ていってね」と言ったりしていたけど、なんだかんだ20歳過ぎまでは一緒にいるのかなぁと。
けれど、愛媛に来てみたらだいぶ事情が違う。
高校より先の学校の数が圧倒的に少ないのだ。
市内の県立高校は5校。私立高校は0。なにかやりたいことが決まっている子なんかは他の市の高校へ進学する場合もあるのだけど、自宅からは到底通えないので寮に入ったりする。
大学ともなると他県に進学する場合がほとんどのようだ。
今、長男は中学3年生になった。
なんとなく成人するまでは家にいると思っていた将来が、どうやらもっと短い可能性があることを、いまめちゃくちゃ実感している。
もしかしたらそれは半年後かもしれない。
そう考えると、今のこの時間がとてつもなく貴重なもののように思えてきた。
終わりを意識すること
普段、生活していて「終わりを意識すること」なんてあまりない。
ただ何事にも終わりはあって、それを意識するとしないとで「今」の見え方がどうやらずいぶん違ってくるみたいだ。
私はいま、子供たちと夫と犬とのこの生活を日々当たり前のように過ごしているけれど、このメンバーでこの家で過ごす日も永遠じゃない。
来年の今頃には1人欠けてるかもしれない。
考えるとちょっぴり寂しい。けれど、もしその可能性があるのならば、そのときが来るまでの時間をどう過ごすかを今度は考えていきたい。
今を大事にすること
ベタな考えだけど、一日一日を大切に過ごすしかないんじゃないかと思えてくる。
目の前にある「今」を大事にすること、これに尽きる。
その方法は、きっと人によっていろいろある。
私の場合は、そうだなぁ。
家族に対しては、ちゃんと最後まで話を聞くこと、リクエストにできるだけ応えること、後回しにしないこと、かな。
お願いされて引き受けたのに「忘れてた!」ってことがよくある人間なので、なるべくすぐ応えられるようにしたいと思ってる。
あと、個人の誕生日など節目節目ではちゃんとお祝いをしたり、家族の集合写真も撮るようにしている。
写真を撮るって、思いっきり「今この瞬間」にフォーカスする行為だから、今しか見なくなる。
そうか!私にとって写真を撮ることは「今を大事にする」ことなんだ。これを書いていて気づいた。
「今を残したい」という撮影依頼
今年の春に撮影させてもらった家族写真の撮影レポート。
【撮影レポート】大学生の長男が帰省するのに合わせてご近所で撮る家族写真。「今」を残したい(西条市)
ご依頼の理由は、「今を残したかった」というお気持ちからでした。
子供が小さいうちは毎月、毎年、顔つきも体つきもみるみる変わるので、「写真を撮っておかなくちゃ!」という気持ちも自然と強くなるものです。
私もそうでした。
我が子の月齢写真をせっせと撮ったり、どこへ行くにもカメラを提げて一挙手一投足を見逃すまいという気合いは、あの頃だったからだと思います。
だけどどうでしょう。
子供たちが小学生、中学生となった今、以前ほどの気合いはいつの間にか持ち合わせなくなってしまいました。
だから、今回このようなご依頼をいただいて、私自身が一番ハッとさせられました。
—「息子は大学生活にも慣れた夏頃にはまた顔つきが変わっているかもしれない」
—「娘は化粧をしてどんどん顔が変わっている」
—だから「今を撮りたい」。
お子さまたちの変化をとても繊細に捉えてらっしゃると感じ、胸に込み上げるものがありました。
いつか終わりがくるからこそ、今を大事にする。その手段の一つとしての写真撮影。
こういう方たちの気持ちに応え続けていきたいな。
終わりを意識することと今を大事にすること
ありがたいことに私はこれまでいたって健康に生きてきたのもあって、明日死ぬなんて思いながら生きてたときなんて、ほぼほぼないに等しい。
当たり前のように夜がふけて、また当たり前のように朝が来る。
そこに何の疑いもなく生きている。
普段はそれでもいいと思う。でも、ときどき思い出したい。
終わりを意識することと今を大事にすることはイコールだから。
今を生きるために終わりをちょびっと意識してみよう。