「好き」を深掘るとその人自身が見えてくる。
わたしはコーヒーが好きです。
ということは、以前にも書かせてもらいました。
「香りが好き」
「コーヒーを囲む時間が好き」
ただ物質としてのコーヒーではなく、それにまつわる空間的なものも含めてコーヒーが好きなんだなぁと思います。
ピアノの先生とのコーヒータイム
コーヒーに関する一番古い記憶は、母とピアノの先生です。
子どもの頃、きょうだい全員でピアノを習っていたのですが、教室へ通うのではなく、先生がうちへ来てくださる形式でした。
一人30分ずつくらい、4人きょうだいのレッスンを終えた後、必ずお茶をする時間がありました。
そのとき、お出ししていたのがいつもコーヒー、それも決まってブラックでした。
母は「コーヒーはやっぱりブラックよね」というタイプで、ピアノの先生もそうで、気が合うのがうれしそうに見えました。
わたしは子どもだったので飲めなかったけれど、豆を挽いたり、サイフォンのアルコールランプの火を、いいタイミングで消したり、というお手伝いをしていました。
立ち上るコーヒーの香り。そしてはじまるお茶の時間。
とても笑い上戸な先生で、どんな取るに足らない話題でも、楽しそうに聞いてくれたのがすごく心地よくて、大好きな時間でした。
わたしもいつか大人になってコーヒーが飲めるようになったらブラックコーヒーをかっこ良く飲みたいなぁ。そんな風に思っていました。
理想のコーヒーを求めて
わたしにとって「大人」の象徴であり、楽しい時間の代名詞でもあるコーヒー。
残念ながらあまりブラックは得意ではなく、いつもミルクを入れて飲むのですが、それでも週末のコーヒータイムはあの頃と似たようなホッとできる時間です。
最近では、豆の選び方とハンドドリップの方法について習ったので、毎度、「理想のコーヒー」を目指して試行錯誤しています。
そうそう、わたしには目指す味、理想のコーヒーがあるんです。
それは友達と横浜へ遊びに行ったときに、たまたま入ったカフェで飲んだコーヒーでした。
一緒に行った友達は、高校からの腐れ縁の二人。わたしは、まだ歩けない赤ちゃんだった娘を抱っこして、久々の横浜の繁華街に心が踊った記憶があります。
中華街や山下公園などを適当に散策し、どういう流れか入ったカフェで、わたしはブラックコーヒーを注文しました。
わたしたちが座った席の目の前は大きなガラス窓になっていて、外一面は緑の木々、まるで森の中にいるかのような空間でした。
いつもならすぐにミルクを入れてしまうところ、なんとなくその日はブラックのまま飲んでみたい気がして、恐る恐る口にすると
トロンとした口当たり、苦味はあまり強くなく、スーッと喉に入っていく感じ。
ああ、おいしい。
それ以来、この時のコーヒーの味がわたしの「理想のコーヒー」になりました。
どんな豆を使っているのか、どこのお店だったか、何も覚えていないのですが、体にわずかに残った記憶だけを頼りに、この味を再現できないものかと格闘しています。
いま、手元にあるこの豆を使って、この豆の味を最大限に引き出して、おいしいコーヒーを淹れられたならば、きっとあのときの横浜のコーヒーの味に近づくはず。
そんなことを思いながら、試行錯誤し、探求していく、そのプロセス自体が楽しいんだろうなぁ。
「好き」を深掘りすることで見えてくるコアな部分
コーヒーが好き。
それを深掘りしていくだけで、いろんな側面が見えてきました。
「大人の象徴、憧れの対象としてのコーヒー」
「ホッとする、楽しい時間の代名詞であるコーヒー」
「答えのないものを探求するという意味でのコーヒー」
なんとなく好き、なんとなくホッとする、と思っていたけど、子どもの頃のあの時間が原体験だったのかと気付くと、自分の「好き」に確信が持てます。
好きなものがたくさんある、好きなものに囲まれる毎日って、単純に幸せですよね。
また、答えがないものを探求する、そのプロセス自体をおもしろがっているという一面については、写真も同じだよなー!と思いました。これは大きな発見です。
コーヒーと写真、一見まったく違うものを好きなようだけど、コアな部分では通じるものがあるんですね。
そうして見えてきた自分自身というものは、とても揺るぎない存在で、嘘のない姿なんだと思います。
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あなたもぜひ、ご自身の「好き」を深掘りしてみてください。
そこにはあなた自身につながる共通の何かがあるかもしれません。