保育園の連絡帳は日常を観察するツール。そして写真も。
ある日の保育園の連絡帳。
<家庭での様子>
絵本(というか図鑑)を読んで!とせがまれ、ちょっとスマホをいじりながら適当にあいづちをうっていたら、「よんで!!(怒)」と体ごとひっぱられ、座らされ、怒られました。昨日は、キリンのページを一生懸命見ていました。
<保育園での様子>
そうですね。
たくみくんは自分の伝えたいことをこちらがわからずに何となく答えてしまうと、「???ちがうでしょ!!」と怒ったように「・・・・・!」と強い口調で言われてしまいます。
散歩の帰り道、何かを見て「◯◯いる!」と教えてくれたのですが、私がわからず「えっ何?ブーブー?」と聞き返すと「◯◯!」とまた怒られてしまいましたが、「ごめんね。わからなかった」とあやまると、「うん」とニッコリのやさしいたくみくんです。
△△公園に散歩に行きました。
なんでもない、ささいなやりとりだけど、子どものことをよーく観察してくださっているなぁとうれしくなった。
具体的なエピソードから、「大人をよく見ている」「自分の主張をきちんと示す」「大人の言うことをよく理解している」という次男像が伝わってくる。
会えない時間は長いけれど、その時間を補完してくれる保育園の連絡帳。
連絡帳の役割
うちの子たちが通っている保育園では、乳児クラスの間は定型の連絡帳があり、毎日書いて持っていく。
食事の内容、体調、排便の様子や睡眠時間を記載する欄があり、子どもの健康面を知らせる大事なツール。
それに加えて、冒頭で引用した家庭での様子、保育園での様子を伝える欄がある。
「家庭での様子」欄の使い方は家庭によって違うのかもしれないけど
わたしの場合は、その日もし体調に心配なところがあればそのことを書き(鼻水が出ます。寝るとき咳が出ていました。などなど)
そうでない場合は、昨晩から今朝までで一番印象に残ったエピソードを書いている。
すると、それに対して先生から一言コメントがあったり、そのエピソードに関するまた別のエピソードを書いてくださったりする。
ちょっとした交換日記的な役割。
連絡帳を書くために日常を観察する
正直なところ、連絡帳を毎日書かなくてはならないのが負担に感じる日もある。
そんなに毎日印象に残るようなできごとが起こるわけでもないし、だいたい同じスケジュールでご飯、風呂、寝る、、、ってやってると取り立てて書くことがないと頭を抱えてしまうこともある。
連絡帳を「家庭での様子」欄を埋めるためにネタ探しをしているようなところもあるくらい。
だけどそれが返っていいのかも!と思っている。
連絡帳のネタ探しのために、ささいなことも観察するようになる。
ちょっとした仕草、ちょっとしたやりとり、意識しなければ流してしまっていたようなことも印象に残る。
それらを書きとめる。
ひとつひとつは本当にささいなことなんだけど、毎日積み重ねられたそれらを読み返すときいつもハッとするような発見がある。
子どもがこんなに成長したな〜というのもあるし、あのときわたしはこう感じていたのね、こんなことに関心があったのね、と自分自身を俯瞰して見れたりもする。
「保育園での様子」欄からは、先生が書いてくれる具体的なエピソードから、会えない間の子どものことがリアルに浮かんでくるのが嬉しい。
そうか、こんな一面もあるのね!とわたしの中で点と点が結ばれて、また新たな子ども像ができあがっていく。
先生方のあたたかい目線を感じ、安心する。
日常をスナップすることと似ている
連絡帳を書くことは、わたしにとって日常をスナップすることと同じかもしれない。
いたってフツーな毎日だけど、その中でもハッとする瞬間をひとつひとつ切り取っていく。
ひとつひとつは本当にささいなもの。
だけど、日々積み重ねられたそれらを俯瞰してみると、すごくおもしろい。
自分が子どもたちを、世の中を、どんな目線で見ているかがわかる。
それは意外とあたたかい目線だったりする。
いたってフツーと思っていた毎日の中に、ちゃんとおもしろいもの、子どもたちのいいところ、光るものを見つけられている。
それってすごいことじゃん!って素直に思える。
日常を写真におさめることのチカラはこういうことにあるって気づいてしまったから、わたしは写真を撮り続けているんだと思う。
日常のささいな発見は、記憶するだけでなく、言葉にすること。
メモでもいいし、連絡帳という場を借りてもいい。
それから、言葉だけでなく写真に撮ること。
写真だとより細部まで描写され、思い起こすことができる。