間違えから生まれた豊かな時間。一見無駄に見える時間を意識的に作ろう。
「あっ、間違えた。。。」
と気づいたのは、電車を降りてからだった。
今日は家に自転車を置いてきているんだった。この駅から歩くと保育園まで20分くらい、さらに家まで10分。
次男の手を引いて歩くことを考えるといつ家に着けるのかわからない。でも時間的に引き返す余裕はない。
ええい!歩いてしまえ!
ルートAとルートB
わたしは通勤の際、2通りのルートを使っている。
ルートAは家から徒歩5分の最寄駅から電車に乗るパターン、ルートBは家から歩くと30分くらいかかる別の沿線の駅まで自転車で出るパターン。
Aの方は電車に乗っている時間が長いけど運賃は安い。読みたい本があるときなどはコッチを使いたい。あとは、雨の日など、自転車に乗りたくない日はコッチ。
逆にBの方が運賃は高いけど所要時間が短い。駅までの中間地点に保育園があるから、送迎がてら自転車をこぐ分にはなんら負担にならない。
あとは、朝の保育園の送りを夫がするかわたしがするかなど、その日の事情によって都合がいい方を選んでいる。
それで「間違えた」というのは、朝はルートAで来たのに、帰りはルートBに乗ってしまった、というわけだ。
歩いて保育園へ、それから家へ
久しぶりにまとまった距離をテンポよく歩いてみると、気持ちがいいもんだと思った。
前方の左手はキレイなうすピンク色と水色の夕焼け空、一方、前方右手から後方にかけてはずっしり重たそうな真っ黒い雲。一雨きそうだ。
足にまとわりつくレジ袋。それを振り払いながら、道路の反対側のゴミ捨て場が目に入る。いくつかのゴミが置いたまま。ここから飛んできたんだろうか。
右折をして歩き進めると、黒い雲しか見えなくなった。お迎え、急がなきゃ。
次男を迎えに行き、「今日は自転車がないんだ。だからお家まで歩こうね」と言うと「なんで?」といつものなんでなんで攻撃。
「間違えちゃったの、ごめんね」と言いながら手をつないで歩き出す。
影法師を見た次男が「ママ、おっきいね〜」と言う。
そう言われて足元に目を落とすと、次男はわたしの背丈の半分ほどしかない。これがいつしかわたしを抜いていくのかな、などと想像する。
すれ違うおばあさんが、「えらいわねー」と目を細める。
建設中の家の敷地内に、小さなショベルカーを発見。
「なんでショベルカーあるの?」
「なんでうごいてないの?」
「なんでこうじのおじさん、かえっちゃったの?」
「なんでごはんたべるの?」
「なんで?」
なんでなんで攻撃がまたはじまった。「なんでだろうね〜。明日の朝になったら動いてるかな〜」などとかわす。
「あしがつかれたよー。だっこー」と何度も言われたけど、家の近くまで引き伸ばして、最後の道路を渡るところで抱き上げた。
「たくさん歩いてがんばったねー。足、強くなったねー」とわたしが言うと、「たくちゃん、がんばったでしょ。すごいでしょ」とさっきまでの「抱っこ抱っこ!」は棚に上げてしたり顔。
ポツポツとほおに当たるものがあったので、足早に帰宅した。
一見無駄に見える時間が新しい発見につながる
思い返してみると、普段の生活で「歩く」ということが、めっきり減ってしまった。
自転車の方が断然早いし、無駄がない。時間のロスは敵だ!効率効率!という声が呪いのように浮かんでは消える。
でも、本当にそうなんだろうか。
自転車の前後だと、風の音などでほとんど声が聞こえない。手を引いて歩いてみたことで、「会話ができる」ことを発見したし、その時間はとてもおもしろかった。
効率と引き換えに失っているものもあるんだよ、ということを忘れていた。というか、見ないようにしていた。
今回は間違えたことでたまたまこうなったけど、そのおかげで豊かなひと時を過ごせたので、あながち間違えることも悪くはない。
たまにはこういう一見無駄に見える時間を意識的に作ってみるのも、新しい発見につながっていいかもしれない。